第2部

かずやとリナがハワイへ出発した当日の朝。
エントランスには高級ブランドの巨大なトランクが山積みになっていました。
「ぼさっとしてないでこの荷物をさっさと車に運べ。お前みたいな寄生虫はこういう力仕事くらいしか存在価値がないんだからな」
白いサマースーツに身を包んだかずやが顎で指図します。
その横でリナが蛍光色のリゾートワンピースを着て、下品に笑っていました。
「そうですよ。私たちこれからファーストクラスのラウンジで高級シャンパンを飲むのに忙しいんですから。汗をかくような下働きはおばさんの仕事ですよね」
私は一切表情を変えず、静かに沈黙を貫いていました。
怒る気にもなれないほど、目の前の二人が愚かで哀れに思えたからです。
その時、エントランスの扉がノックされました。
現れたのはグローバルフロンティアのナンバー2・工藤副社長と、メインバンクの佐藤支店長です。
「おお、工藤に佐藤じゃないか。わざわざ俺の見送りに来てくれたのか」
かずやは上機嫌で二人を迎え入れました。
「かずや社長、ご出発おめでとうございます。どうかごゆっくりハワイを満喫してきてください。留守の間は全て我々にお任せを」
二人は愛想笑いを浮かべて深々と頭を下げます。

かずやは満足げに頷き、リナの腰を抱き寄せてリムジンへと歩き出しました。
しかし彼が完全に背を向けた瞬間、工藤と佐藤はくるりと私の方に向き直りました。
そして先ほどのかずやに見せた表面的なお辞儀とは全く違う、地面に額がつくほどの深い敬礼を私に対して行ったのです。
二人は私が裏から手を回して現在の地位につけた、私の忠実な手駒でした。
私は微かに顎を引き、無言の指示を与えました。
二人の顔に冷たい光が宿ったのを、私は見逃しませんでした。
「それじゃあな、惨めなババア。俺たちの輝かしい未来に乾杯だ」
リムジンの窓から中指を立てるかずやと、手を振って笑うリナ。
車が完全に見えなくなった後、秘書の田中が静かに歩み寄ってきました。
「奥様、不届き者は片付きましたね」
「ええ。長かった茶番劇もこれで終わりよ。ただいまこの瞬間から全ての計画を実行に移しなさい。200億円の投資資金の完全回収、及びかずやの個人口座の凍結。情けは1円とも無用よ」
「承知いたしました。直ちに全方位から包囲を展開いたします」
空高く飛び立つファーストクラスで、最高級のキャビアとシャンパンに酔いしれるかずやとリナ。

彼らはまだ想像すらしていませんでした。数時間後、ハワイの空港に降り立った瞬間、自分たちが一文無しのホームレスに転落しているという恐るべき地獄の始まりを。
ハワイ到着直後、かずやから国際電話がかかってきたのは、日本時間で深夜を回った頃でした。
私はスマートフォンをスピーカーモードにしてデスクに置きました。
「おい、さゆり起きてるか? まあお前みたいな暇な老婆は夜中に起きるのも仕事のうちだろうがな」
後ろからリナの甲高い笑い声がかぶさってきます。
「おばさん、聞こえますか? 私たち今、ハワイの最高級ホテルのペントハウスに着いたところなんです。窓からは一面の海が見えて、もう最高ですよ」
「全くだ。1泊50万円のスイートルームだぞ。お前みたいな貧乏症の女には一生縁のない場所だな。今から極上のルームサービスを頼んで最高級のシャンパンを開けるところだ。お前はせいぜい賞味期限切れの水道水でもすすって、俺たちの幸せを祝ってくれや」
二人の声には一片の罪悪感もありません。ただ純粋に私を見下し、優越感に浸っているだけでした。
私は一切の言葉を発しませんでした。ただ氷のように冷たい沈黙を貫いていました。
「おい、聞いてるのか? まあいい。どうせショックで声も出ないんだろう。じゃあな、惨めな負け犬女」
通話は一方的に切られました。
部屋の隅から田中が静かに声をかけました。
「相変わらずご自身の置かれている状況を全く理解されていないようですね」
「ええ。高いところに登れば登るほど、落ちた時の痛みは増すものよ」
翌朝、豪邸のインターホンが激しく鳴り響きました。
現れたのはかずやの顧問弁護士・黒田です。
彼は土足でリビングに上がり込み、テーブルに書類を乱暴に放り投げました。
「離婚届けと財産放棄の同意書、それにこの家の立ち退き要求書です。かずや社長はハワイから戻られるまでに、あなたにこの家から完全に出ていって欲しいそうです。慰謝料や財産分与は一切ゼロ。さっさとサインして出ていってくださいよ」
私は無言のまま書類を見つめました。

黒田はさらに言葉を重ねました。
「かずや社長も人が悪い。あなたみたいな若さも美貌もない、自分で稼ぐ力すらないただのおばさんを無一文で放り出すなんてね。でもそれが現実ですよ。サインしないというなら、裁判を起こしてあなたが会社の金を横領したというでっち上げの証拠を作り、逆に莫大な損害賠償を請求してやってもいいんですからね」
私はゆっくりとペンを取り、迷うことなくサインしました。
「これで法的に私はかずやとの縁を完全に断ち切り、無一文で家を追い出される哀れな女になった」
黒田はそう確信し、勝利の笑みを浮かべて書類を回収しました。
「よし、これで完璧だ。明日の昼までに出ていけよ。じゃあな、惨めな元奥様」
彼が去った後、私は静かに氷のような冷たい微笑を浮かべました。
彼らが致命的な事実に一つも気づいていないのです。
かずやが「自分の天才的な経営手腕で集めた」と豪語していた200億円。
その全額は、実は私の実家の巨大な資産を管理する海外のダミー会社を通じて、極めて厳格な条件付きで貸し付けていたものでした。
契約書にはこう記されています。
「もしかずやが筆頭株主であり実質的オーナーである私との婚姻関係を一方的に破棄した場合、200億円の融資は即座に全額一括返済しなければならない。返済が不可能な場合、グローバルフロンティアの全株式及び全ての個人資産を無条件で強制的に没収する」
かずやは私が無能な専業主婦だと思い込み、内容もろくに確認せずに社長の実印を連打していたのです。
さらに黒田の法律事務所も、数年前の経営破綻危機を私が匿名で救済し、現在も運営資金の8割を出資している私の完全な支配下にありました。
「奥様、ついに離婚届けと財産放棄の同意書にサインがなされました。これで融資の即時返済を満たす完璧な法的根拠が成立いたしました。いよいよ200億円の強制回収システムと全口座の凍結プログラムを作動させてもよろしいですね」
私は深く頷きました。

「ええ、構わないわ。かずやの個人口座、会社のメインバンク、隠し口座に至るまで全て完全に凍結しなさい。大取会長にも連絡して、取引全面停止のプレスリリースを今すぐ全国のメディアに向けて打たせるのよ」
その頃ハワイの最高級ホテルのフロントでは、かずやがブラックカードを提示していました。
しかし支配人の顔が青ざめました。
「お客様、こちらのカード、現在全ての機能が完全に停止されているようです」
「どういうことだ? この俺のブラックカードが使えないだと。さっさと直せ」
法人カードもエラー。個人カードも全て停止。
工藤副社長からの電話が入りました。
「かずや社長、たった今メインバンクから全ての融資の即時引き上げと全口座の完全凍結を通達されました。明日の支払いができません。会社は終わりです」
「ふざけるな。お前ハワイの太陽で頭がおかしくなったのか」
直後、経済ニュースの緊急速報がスマホに表示されました。
『大取会長率いる巨大IT企業、グローバルフロンティアとの全取引を即時停止。違約金約50億円を請求』
かずやの顔から血の気が引きました。
「お客様、お支払いの能力がないようでしたら、直ちにご退去ください。不法侵入として警察をお呼びいたします」
楽園の入口で、かずやとリナは文字通り無一文で路上に放り出されました。
リナは汗でメイクをドロドロに崩しながらヒステリックに叫びました。
「かずやさん、どういうことですか? なんで私たちがこんな暑い中で立ちんぼしなきゃいけないんですか。最悪です」
かずやがすがった黒田弁護士も、狂ったように怒鳴り返してきました。
「てめぇ一体裏で何をやらかしやがった。うちの事務所の最大スポンサーが突然全資金を引き上げるって言い出して、今うちは完全に倒産したんだよ。てめぇの相手なんかしてる暇はねぇ」
最後の望みとして、かずやは「海外のエンジェル投資家」の緊急ダイヤルに電話をかけました。
出たのは私でした。
「どうしたのかずやさん。ハワイの海はそんなに寒いの?」
「なんで……なんでさゆりがこの電話に出るんだ? これは俺の最大のパトロンであるエンジェル投資家の直通番号だぞ」
「あら、まだ分からないの。あなたのその薄っぺらい脳味噌では、目の前にある一番簡単な答えすら理解できないようね」
ハワイ支社長の鈴木が現れ、帰りのチケットとスマートフォンを没収しました。
「真のオーナー様からの伝言です。自分の足で這いつくばってでも自力で日本へ帰りなさいとのことです」
さらに海外投資ファンドの弁護士が現れ、200億円の一括返済を突きつけました。
契約書の最高責任者欄には、はっきりと「勇者 さゆり」と記されていました。
かずやはアスファルトの上に崩れ落ちました。
「全てはお前の手の上だったのか……」
リナは冷たく彼を切り捨てました。
「200億円の借金まみれの無職のおっさんなんて、ただの素材ゴミじゃないですか。私がお金を持っててブランド品を買ってくれるから付き合ってあげてただけですよ」
ヒールの音を響かせて消えていくリナの背中を見送り、かずやは公衆電話から私にコレクトコールをかけました。
「さゆり、俺だ。頼む。助けてくれ。俺が悪かった。リナにも捨てられて無一文でハワイの路上に放り出されたんだ。今すぐ俺を日本に帰してくれ」
私は一切の言葉を返しませんでした。
ただ静かに、絶対的な沈黙だけを貫きました。
その沈黙こそが、彼に対する最高の復讐でした。
やがて現地の債権回収部隊が現れ、腕時計もパスポートも全てを没収しました。
かずやはアロハシャツと短パンだけを残され、熱されたアスファルトにへたり込みました。
東京の本社最上階。
私はかつてかずやがふんぞり返っていた社長椅子に座り、タブレット越しに彼の惨めな姿を見つめていました。
「かずやさん、あなたの人生で最大の真実を教えてあげるわ」
「あなたが20代の頃に初めて取ってきた大きな契約。あれは私が裏でダミー会社を作って発注しただけの偽の取引よ。会社の危機を救った大型出資も、大取会長との業務提携も、メガバンクがペコペコ頭を下げていたのも、全て私が巨額の資金を使って仕組んだ自作自演の茶番劇」
「あなたには経営の才能なんて最初から一ミリも存在しなかったのよ。ただ私が用意した安全なレールの上で社長というお遊戯をさせてもらっていただけの、無能で愚かな操り人形だったの」
工藤副社長が冷たく付け加えました。
「社内の人間は皆、あなたが何もできない無能なお飾りであることを知っていました。私たちが本当に忠誠を誓っていたのは、常に的確な指示を出し、莫大な資金で会社を支え続けてくださったさゆり様ただお一人です」
かずやは白目を剥いて地面に崩れ落ちました。
「それじゃあね、かずやさん。200億円の借金と共に、その美しいハワイの楽園でせいぜい自分の無能さを呪いながら生きていきなさい」
通信が切れました。
かずやは強制労働施設へ送られる貨物船の船底に詰め込まれ、二度と太陽の光を見ることはありませんでした。
リナも不法就労と資金横領の共犯容疑で現地警察に拘束され、異国の冷たい留置場で誰からも助けられることなく泣きじゃくることになりました。
それから数週間後。
東京の空は穏やかな春の日差しに包まれていました。
本社社長室の窓からは、少しずつ膨らみ始めた桜のつぼみが、新しい季節を祝福するかのように薄紅色の景色を作り出しています。
私はかずやが見栄を張るためだけに並べていた下品な高級家具を全て処分し、実用的で温かみのある木目のデスクと、社員が気軽に相談に来られる明るいソファを配置しました。
「さゆり社長、おはようございます。本日のスケジュールの確認をお願いいたします」
入ってきたのは、ハワイでの任務を完璧に遂行し、私の直属秘書として復帰した山田でした。
後ろには長年私を支えてくれた田中と工藤副社長も、優しい笑顔を浮かべて立っています。
「おはよう。今日もみんなとても良い顔をしているわね。さあ、温かいお茶でも飲みながら打ち合わせをしましょうか」
三人は深く、しかしとても温かな敬意を込めてお辞儀をしました。
「社長のおかげです。あの傲慢で無能な男がいなくなり、社内の雰囲気は劇的に改善されました。社員全員がようやく自分たちの仕事に誇りを持ち、心から笑顔で働けるようになったのです」
私は窓の外の美しい景色を見つめました。

25年間、私はただひたすらに一人の愚かな男を支えるために自分の人生を捧げてきました。
裏切られ、罵倒され、最後には無一文で家を追い出されるという残酷な仕打ちを受けましたが、私は決して自分の歩んできた道を後悔していません。
なぜならその長く苦しい冬の時代があったからこそ、私はこうして本当に信頼できる素晴らしい仲間たちに出会うことができたのだから。
「さあ、今日も頑張りましょうか。私たちの会社はこれからが本当のスタートよ。社員全員が幸せになれる、世界一温かい会社を作っていくわよ」
「はい。どこまでもさゆり社長についていきます」
力強い返事が、明るい社長室に響き渡りました。
遠い異国の地下深くで、決して終わることのない地獄の中で泥水をすすり続ける愚かな男と女。
彼らが再び地上に戻ることは二度とありません。
対照的に、私の目の前にはどこまでも明るく、希望に満ちた輝かしい未来が広がっています。
温かな春の風が窓から吹き込み、私の頬を優しく撫でていきました。
これは長い長い冬を耐え抜いた私への、最高の贈り物のように感じられました。
私の本当の人生の、美しく感動的な第一章が、今静かに幕を開けたのです。


