第2部:影が光を取り戻す時

承認が降りた日、竜一は会社で英雄になった。社長に呼ばれ握手を求められ、その年の社員旅行では壇上で表彰された。彼は家に帰ってくると、まるで自分一人の力で成し遂げたかのように相太に武勇伝を語った。
「父さんはな、会社を救ったんだぞ」
私はキッチンでその話を聞きながら、静かに皿を洗っていた。訂正しようとは思わなかった。夫婦なのだから、どちらの手柄でも同じことだと信じていたから。
けれどその「私たちの形」は、少しずつ、けれど確実に歪んでいった。
セレストの成功で自信をつけた竜一は、それから何度も私を頼るようになった。海外の取引先とのやり取り、特にドイツのヘルトマン社との交渉は、全て私が背後で支えていた。彼は英語がほとんど話せなかったのだ。彼が「自分が書いた」と言って会社に提出するメールの原文は、いつも私が下書きしていた。
ヘルトマン社の技術責任者・クラウス・ベルガー博士とのやり取りは、もう10年近く続いていた。ベルガー博士は几帳面で誠実で、専門的な議論を好む人だった。彼はメールの向こうにいる「S. Sawada」という人物を深く信頼していた。その正確な薬事知識と細やかな配慮を、何度も賞賛してくれた。
けれど彼は知らなかった。その「S. Sawada」が竜一ではなく、その妻のさやだということを。
私は夫の名前を借りた影だった。顔のない、名前のない影。
影であることに私が疑問を持ち始めたのは、いつからだったろう。多分、竜一が課長になり部長になり、その肩書きが大きくなるにつれて、彼の言葉から敬意が消えていったことに気づき始めた時からだ。
「今日の会議、俺の説明で役員が納得してたよ。やっぱり現場を知ってる人間は違うんだ」
その会議で使われた資料は、前の晩に私が徹夜で作ったものだった。データの分析も、想定される質問への回答も、全て私が用意した。彼はただそれを読み上げただけだ。
私は何も言わなかった。ただ「良かったね」と微笑んだ。
そういうことが積み重なっていった。彼の中で私の存在は、だんだんと当たり前のものになっていった。空気のようにあって当然で、感謝する必要もないもの。
「これくらいパパッとできるだろう。専業主婦で時間はあるんだから」

その言葉を聞いた時、私は皿を拭く手を止めた。私はその言葉を心の奥の冷たい場所にしまった。その冷たい場所には、少しずつ色々なものが溜まっていった。
ある年の正月。義実家の親戚が20人ほど我が家に集まった。私は3日前から仕込みを始め、当日は朝の5時から台所に立ちっぱなしだった。誰も私を手伝おうとはしなかった。それがこの家の嫁の仕事だったから。
食べ終わった頃、義母が親戚たちの前で大きな声で言った。
「この煮物、少し味が濃いわね。さやさんは柏木のご出身だから、上品な味付けをご存知ないのよ。仕方ないわよね」
親戚たちがどっと笑った。竜一も一緒になって笑っていた。私がその煮物を彼の好みに合わせて何度も味見をして作ったことを、彼は知っていたはずなのに。
私は笑顔を作って「すみません。次は気をつけますね」と頭を下げた。
そういう夜が何度もあった。私が頭を下げるたびに、その冷たい場所に一つずつ氷が積もっていくことに、竜一は決して気づかなかった。
そしてある日。息子の相太が大学に進学して家を出て、私の生活は少しだけ静かになっていた。その日、私は竜一のスーツをクリーニングに出そうとクローゼットを整理していた。セビロの内ポケットに一枚のレシートが入っていた。深夜のホテルのラウンジの領収書。日付は先週の水曜日。金額は二人分のディナー。宛名は空だった。
私はそのレシートをしばらくの間ただ見つめていた。心臓がドクンと一つ大きく鳴った。それから妙に静かになった。私はそのレシートを元の場所に戻した。
その夜から私は見るようになった。夫のスマートフォンが風呂場に置き去りにされた30秒。深夜に届く通知の光。クレジットカードの明細に並ぶ、私の知らない店の名前。
そして決定的な夜が来た。その夜、竜一は帰ってこなかった。「出張だ」と彼は朝そう言っていた。けれどその日の夕方、彼のスマートフォンから我が家のリビングに置かれた古いタブレットに写真が一枚同期された。
写真には竜一と若い女が映っていた。温泉旅館の浴衣姿。女は竜一の腕に体を預け、カメラに向かってあっけない笑みを浮かべていた。20代のまだ幼さの残る顔。私はその顔に見覚えがあった。会社の忘年会で一度だけ挨拶をした、夫の秘書・三沢レ奈。

私はそのタブレットを持ったままソファーに座り込んだ。涙は出なかった。ただ体の芯が、氷を飲み込んだように冷たくなっていくのを感じた。
その時、私の中で何かが静かに、決定的に終わった。
私は寝室のクローゼットの奥へ行き、箱を引きずり出した。中には15年前にしまっていた薬剤師の免許証と、この10年に保存し続けてきたものが入っていた。
セレストの申請書類の、私が書いた草稿の全て。手書きのメモ。深夜に走らせた私自身の筆跡。日付の入った無数のノート。ヘルトマン社のベルガー博士とやり取りした10年分のメールのバックアップ。
私はそれを捨てられなかっただけだった。自分が確かにそこに存在した証を。
翌朝、竜一は何食わぬ顔で出張から帰ってきた。
「ただいま。いや、疲れたよ」
私はいつものようにコーヒーを入れ、彼の前にそっと置いた。
「お帰りなさい。大変だったわね」
私は微笑んでそう言った。
その日から、私の準備が始まった。
私は法律事務所を訪れ、離婚問題を専門とする東山弁護士に全てを話した。セレストの申請書類の手書き草稿を見た時、彼女は少しだけ目を見開いた。
「柏木さん、これは……財産分与の交渉において極めて重要な意味を持ちます。あなたは単なる専業主婦として家庭を支えていたのではない。ご主人の会社の中核となる資産を生み出す仕事を、無償で、しかも他人名義で行ってきた」
私は首を横に振った。

「私はできるだけ多くのお金を取りたくてここに来たのではありません。私が欲しいのは、正当な私の取り分です。それ以上でもそれ以下でもありません。そして、私が確かにこの仕事をしたのだという事実。それだけです」
東山先生は静かに微笑んだ。
「分かりました。あなたのために最善を尽くします」
その頃、私の知らないところで、もう一つの歯車が静かに回り始めていた。
明成メディカルの会長・坂木原は、ヘルトマン社との交渉の席である違和感を覚えた。来日したベルガー博士が竜一に専門的な薬事の質問を投げかけた時、竜一はしどろもどろになり、「持ち帰って検討します」と繰り返すばかりだった。
ベルガー博士の顔に明らかな戸惑いが浮かんだ。
「おかしいですね。メールではいつも即座に的確なお答えをいただいていたのに」
その様子を坂木原会長は上座から静かに見ていた。そしてその夜、ベルガー博士と二人だけで食事をした時、博士はこう打ち明けた。
「あの完璧な書類とメールを書いていたのは竜一ではなく、その妻のさやという女性らしい」
坂木原会長は慎重な人だった。彼は会社の古い記録を徹底的に調べ始めた。セレストの申請が行われた当時のメールのログ。そのメールが送信された時刻。すると奇妙な事実が浮かび上がってきた。竜一の名前で送信されたあの完璧な技術メールの多くが、深夜2時・3時といった時間帯に送られていた。当時の営業部の若手だった彼が、とてもそんな時間まで会社に残って仕事を作れる状況ではなかった。
会長はさらに、当時の申請書類の文体を、竜一が最近書いた社内報告書の文体と専門家に依頼して比較させた。結果は明白だった。文章の構造、語彙の選び方、専門用語の正確さ。その全てが別人のものだった。
そして経理の記録。竜一が部長になってからの経費の流れを洗い直すと、取引先退費として計上されたいくつもの高額な支出が、実在しない先への支出だったり、業務時間外だったりした。それらの支出の多くがあるブランド店やホテルに集中していた。
坂木原会長は静かに、けれど確実に外堀を埋めていった。
私はそのことをまだ知らなかった。私は私で、自分の準備を進めていた。ある日、私は思い切って坂木原会長に一通の手紙を書いた。告発の手紙ではなかった。私はただ事実を伝えたかった。
数日後、私のスマートフォンに知らない番号がかかってきた。
「さやさんでいらっしゃいますか? 私、明成メディカルの坂木原と申します」
私たちは都内の静かな喫茶店で二度目の面会をした。会長は私の話を一言も口を挟まずに最後まで聞き、証拠の数々を丁寧に確認した。長い沈黙の後、会長は静かに頭を下げた。
「柏木さやさん。私はあなたに謝らなければならない。我が社は10年もの間、あなたの才能と献身の上に胡座をかいてきた」
会長はまっすぐに私を見た。
「私はこの会社を公正な場所にしたい。努力したものが正当に報われる場所に。あなたのような人が影に埋もれたまま切り捨てられるような会社であってはならないのです」
そしてその日が来た。
竜一の執行役員昇進を祝う会。都心のホテルの大きな宴会場。100人を超える社員と取引先が集まり、シャンデリアの光の下でシャンパンのグラスがあちこちで輝いていた。
竜一はこの日のために新しいスーツを仕立てていた。彼は会場の中心で次々と挨拶に来る人々と握手を交わしていた。その顔は、生涯で最も誇らしい瞬間を迎えた男の顔だった。
私もその会に招待されていた。妻として。私は地味なけれど品のいいワンピースを着ていた。派手さはなかったけれど、その日の私はこの15年間で最も背筋が伸びていた。
会場に入った私に竜一はちらりと視線を投げただけだった。彼は私を、そこにいる家具か何かのように扱った。そして彼のそばには、いつの間にか三沢レ奈がいた。真っ赤なドレスを着て、竜一の腕に当然のように手を添えて。
私の席には名札が置かれていた。「沢田さや」。けれど私がその席に近づいた時、レ奈が先にそこに座った。そして勝ち誇った目で私を見上げた。
私が何か言う前に、竜一が100人の前でこう言い放ったのだ。
「悪いけど、その席はレナが座るから、君立ってくれる?」
そう、ここから全てが始まった。
会場が笑った。私は乾杯のグラスを握ったまま立ち尽くした。爪が手のひらに食い込んだ。
そして坂木原会長がゆっくりとグラスを置いた。
「竜一君。君が執行役員に選ばれた本当の理由を、君は本当に何も知らないのかね?」
夫の顔から笑みが剥がれ落ちた。
会長はゆっくりと立ち上がった。72歳のその小柄な体から、会場全体を制圧する静かな威厳が放たれた。
「今日はめでたい席だ。だから私はこの会社の未来にとって最も大切なことを、みんなに伝えておきたい」
会長は手にしていた一冊のファイルを開いた。
「10年前、我が社の運命を変えた製品・セレスト。あの承認申請が絶体絶命の状況から奇跡的にまとまったことを、古くからいる者は覚えているだろう。あの功績によって竜一君は出世の階段を登り始めた」
竜一が誇らしげな笑みを浮かべた。
「それは——」
だが会長は彼の言葉を静かに遮った。
「あの申請書類を実際に書いたのは、竜一君ではない」
会場がざわめいた。会長はファイルから一枚の書類を取り出した。それは私が10年前に書いた手書きの草稿のコピーだった。
「これがその証拠だ。深夜2時、3時に自宅から送られた無数の技術メール。当時外回りの営業だった君が書けるはずのないものだ。文体の鑑定でも結果は明白だった。あの完璧な仕事は、全くの別人の手によるものだ」
竜一の顔から血の毛が引いていった。レ奈は椅子に座ったまま、落ち着きなく周囲を見回していた。
「そしてその別人とは——」
会長の視線がゆっくりと私に向けられた。
「そこに立っているあなたの奥様、柏木さやさん。かつて優れた薬事の専門家だった女性だ」
100人の視線が一斉に私に集まった。私は静かに立っていた。
会長は続けた。
「ベルガー博士は10年間、メールの相手を竜一君だと信じていた。しかし先日来日した彼が竜一君に直接専門的な質問をした時、竜一君は何一つ答えられなかった。ベルガー博士はこう言った。『あの誠実で正確な仕事をした人物は、決してこの人ではない』と」
会場は完全に静まり返っていた。
会長はもう一冊のファイルを開いた。今度は経理の記録だった。
「さらに私は看過できないことをもう一つ発見した。竜一君、君が部長になってから使った多額の接待費。その多くが実在しない取引先への支出として計上されている。そしてその金が実際にはどこに使われたのか」
会長の視線が、今度は椅子に座るレ奈に静かに移った。レ奈の顔が真っ青になった。彼女は逃げるように椅子から立ち上がろうとしたけれど、足がもつれて立てなかった。
「会社の金を私的な関係のために不正に流用する。これは単なる不倫の問題ではない。会社に対する明確な背任行為だ」
竜一はもはや言葉を失っていた。彼は口を金魚のようにパクパクと動かすだけで、何の音も発することができなかった。
その時、会場の後方から一人の外国人がゆっくりと前へ歩み出てきた。クラウス・ベルガー博士だった。
彼は竜一の前まで来ると、流暢とは言えないけれど誠実な日本語でこう言った。
「ミスター沢田。私は10年間あなたに感謝していました。あなたが送ってくれる書類はいつも完璧でした。だから私はあなたを信じていました」
ベルガー博士はそこで一度言葉を切った。そして静かに首を振った。
「けれど先日あなたに直接お会いして質問をした時、あなたは私の質問の意味さえ分からなかった。私はとても悲しかった。私が10年間信じてきた『S. Sawada』は、あなたではなかったのですから」
そして博士はゆっくりと私の方を振り返った。
「本当の『S. Sawada』は、あなただったのですね、さやさん」
会場が大きくざわめいた。100人の視線の重さが竜一の背中にのしかかった。彼は耐え切れず、がくりと肩を落とした。
その時、竜一がようやく声を絞り出した。
「ま、待ってください、会長。それは何かの間違いです。書類は……あれは確かに私が、妻に少し手伝ってもらっただけで——」
「少し手伝ってもらった」
その言葉を静かに繰り返したのは、私だった。会場の全員が私を見た。私は初めて自分の意思で口を開いた。声は震えていなかった。不思議なほど澄んでいた。
「3週間、毎晩朝まで机に向かいました。専門書を取り寄せ、海外の論文を読み、審査機関が本当に求めているものは何かを一つずつ解き明かしました。あなたはその隣で、私が書いたものを清書し、コーヒーを入れていた。それを『少し手伝ってもらった』とあなたは言うのですね」
竜一は何も言えなかった。
「ヘルトマン社との10年間のやり取りもそう。役員会議で使ったあの資料も、あなたが『自分の説明で納得させた』とおっしゃっていたあの資料も、全部私が夜作ったものです。私はあなたの名前の影でずっと仕事をしてきました。文句も言わずに。それが家族のためだと信じていたから」
私はそこで一度言葉を切った。そしてレ奈の座る、私の名札の置かれた椅子を見た。
「その椅子に私の名前が書いてあるのが見えますか?」
レ奈がはっと自分の座っている椅子の名札を見た。
「私は、その席を彼女に譲ります。どうぞ、座っていて」
私は静かに、けれどはっきりと言った。
「なぜなら、私はもうここに座る必要がなくなったからです」
私は坂木原会長に深く頭を下げた。

「会長。私の仕事を正当に認めてくださって、ありがとうございました。私が本当に欲しかったのは、財産でも地位でもありません。ただ、この15年間、私が確かにこの仕事をしたのだという事実。それだけでした」
会長も私に深く頭を下げ返した。
「柏木さん。こちらこそ、長い間あなたの功績を見過ごしてきたことを、心からお詫び申し上げます」
私は竜一の方を振り返った。彼は崩れ落ちるようにその場に膝をついていた。かつてあれほど誇らしげだった顔は、今や見る影もなく青ざめ、歪んでいた。
私はその姿を見ても何も感じなかった。憎しみも哀れみも、勝利の喜びさえも。ただ、長い長い旅がようやく終わったのだという静かな安堵だけがそこにあった。
私は握りしめていた乾杯のグラスをそっとテーブルに置いた。そしてまっすぐに背筋を伸ばし、その会場を一人で歩いて出ていった。
誰も私を引き止めなかった。ヒールの音が、静まり返った会場にコツコツと響いた。それは逃げ出す音ではなかった。一人の人間が、自分の人生を取り戻して歩いていく音だった。
ホテルの外に出ると、夜風が頬を撫でた。空を見上げた。都会の空にもいくつかの星が瞬いていた。私は大きく息を吸った。冷たい空気が胸の奥まで満ちていった。
15年ぶりに、私は自由だった。


