第2部:崩れ落ちる嘘の城

翌朝、和也から激しい電話がかかってきた。
「どういうことだ? なんで口座が凍結されてるんだ?」
今日は香里との新居の頭金を振り込む約束の日だった。私は冷静に答えた。
「お義母さんが私の印鑑を勝手に持ち出して解約手続きをしたからです。有印私文書偽造の疑いで連絡を入れました。調査が終わるまで口座は完全に凍結されます」
「お前ふざけるな! 今日振り込まないとマンションの契約が流れるんだぞ!」
「あのお金は私が毎月の生活費を限界まで切り詰めて貯めたものです。ハルトの将来の手術のために17年間守ってきたお金です。愛人の指輪や新居のために一円も渡しません」
通話を切り、着信拒否に設定した。これが私からの最初の反撃だった。
病院で和也を見かけた。昨日のスーツではなく、しわくちゃのシャツ姿で土色の顔をしていた。香里の姿はない。霧島医師が告げた精密検査の結果は深刻だった。心臓の筋肉の一部がすでに正常な機能を果たしておらず、突然死を防ぐために埋め込み型除細動器の手術が必要だと。
和也はファイルを床に落とし、椅子に崩れ落ちた。かつてハルトの手術から逃げ出した男が、今、自分の命に関わる決断をたった一人で下さなければならなくなっていた。
翌日、姉と一緒に和也の実家を訪れた。義母は「健康な初孫が生まれる」と酔いしれていたが、姉が証拠を突きつけた。マンションの防犯カメラ映像と信用金庫の筆跡鑑定。義母が私の留守中に合い鍵で侵入し、印鑑を持ち出して保険を解約しようとした事実は、立派な犯罪だった。
さらに私は仏壇の引き出しから、30年以上前に亡くなった義父の死亡診断書を取り出した。死因は「拡張型心筋症による急性心不全」。ハルトと同じ病気だ。義母は全てを知っていた。家の体面と世間体を守るために、ハルトの病気を私の家系のせいにし、和也にもそう信じ込ませ、本当の遺伝を隠し続けていたのだ。
その瞬間、香里から電話が入った。彼女は和也の荷物を全て引き払い、結婚を白紙に戻すと告げた。「心臓病を隠していた上に新居の頭金すら払えない男と、どうやって子供を育てていくんですか。私が欲しかったのは健康で頼りになる夫です」
義母は畳の上にへたり込み、口を半開きにしたまま呆然としていた。
数日後、和也の会社の総務部長が訪ねてきた。香里が退職届と一緒に、和也の長年の不正を告発する書類を置いていったという。和也は3年前から健康診断の結果を隠し、診断書を偽造して会社を騙し続けていた。さらに下請け業者への発注を改ざんし、架空経費を計上して会社の資金を横領していた疑いがある。総額800万円。香里へのブランド品や不倫旅行の費用は、全て会社の金だったのだ。
和也は会社から懲戒解雇され、損害賠償を請求された。警察も動き始めた。

最終的な面談室で、和也は車椅子に座り、義母と会社の部長、そして私の前で崩れ落ちた。義母は「完璧な長男」という幻想が崩壊したことを嘆き、和也は私に縋った。
「美希、頼む。ハルトの貯金を貸してくれ。家族なら支え合うべきだろう」
私は離婚届受理証明書を彼の前に置いた。
「あなたは自分が一番苦しい時に私たちを切り捨てました。健康な愛人と新しい人生を歩むと宣言したのもあなたです。そのあなたがどの口で家族の絆を語るのですか。私たちはもう赤の他人です」
和也は言葉を失った。
しかし本当の戦いは、ハルトの心にあった。霧島医師から、ハルトが新しい治療を拒否していると告げられた。「僕が治療を諦めれば、そのお金でお父さんを助けてあげられますか?」——ハルトは父親が病気で会社も解雇されそうだと知り、自分を責めていたのだ。
私はハルトを和也の病室へ連れて行った。ハルトは静かに父親を見下ろし、言った。
「お父さんは僕の看病に疲れたんじゃない。最初から何もしてなかったもん。ただ自分が病気になるのが怖くて、健康なふりをしてお母さんに全部押し付けて逃げ回っていただけなんだ」
ハルトは新しい治療の同意書に、自らの名前を力強く書き込んだ。
「僕は絶対にお父さんみたいにはならない。逃げないし、誰かのせいにして嘘をついたりしない。お母さんと一緒に自分の病気とちゃんと戦う」
「お父さん、さようなら。もう二度と会うことはないよ」

病室を出た直後、警察が和也を逮捕しに来た。横領の容疑で。和也の情けない命乞いが廊下に響いたが、私たちは振り返らなかった。
半年後。ハルトの新しい治療は効果を上げ、日常生活をほとんど制限なく送れるまでに回復した。和也は実刑判決を受け、刑務所の中で病気と孤独に怯えている。義母は古い家を売却し、狭いアパートでひっそりと暮らしている。香里は一人で子供を産み、定期検査を受けながら育てている。和也の面会に行くことは一度もなかった。
春の陽射しの中、ハルトは明るく「行ってきます」と家を出ていく。青白かった頬に赤みが差し、14歳の少年らしい生き生きとした表情を取り戻していた。
週末、私たちは両親の墓を訪れた。ハルトは目を閉じ、真剣な顔で手を合わせた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。将来は霧島先生みたいなお医者さんになって、病気で苦しむ人を助けたい。逃げないでちゃんと人と向き合える強い大人になるから、見ててね」
私はハルトの肩を抱き寄せ、静かに涙を流した。悲しみではなく、17年間張り詰めていた心が解け、救われた安堵の涙だった。
桜の花びらが舞う道を、私たちはゆっくりと歩いた。
「お母さん、今日の夕ご飯何がいい?」
「ハルトの好きなハンバーグにしようか。今日は特別にお肉をたくさん買って帰ろう」
「やった! 僕も手伝うよ」
何気ない親子の日常。かつて和也の顔色を伺い、息を殺すようにして過ごしていた家にはなかった、本当の家族の笑顔がそこにあった。
私たちはもう、誰の嘘にも脅かされない確かな日常を、自分たちの足で歩み始めていた。


